一 向 庵

日本QA 研究会設立前後の裏話

その2.設立総会まで

元 武田薬品工業株式会社中央研究所(理学博士)菊池 康基

【1990年前後の私の対外活動について】
 本論に入る前に、この頃の私の社外活動について記しておく。何しろ多忙であった。
 武田薬品・薬剤安全性研究所(薬安研)・遺伝毒性研究室の実務は、1987年部会長就任を機に、一ツ町晋也主任研究員にゆずっていた。1988年以降は、プロジェクトマネジャーあるいは審議役として研究の第一線から退き、社内業務よりもむしろ製薬協等、社外の業務にウエイトを掛けることができるようになった。1990年前後の担当した社外業務を振り返ってみる。

○製薬協・医薬品評価委員会・基礎研究部会長(1987〜1993)
・委員会総会 年1回、常任委員会・部会長会議 毎月
・部会の会合:基礎研究部会総会 年4回、部会幹事会 毎月、分科会会合(7分科会毎)各毎月 テーマにより出席
・部会の課題:ガイドラインの改定、新規ガイドライン制定への対応
(薬物動態試験と一般薬理試験については初めて部会が実質主導で作成)、QA研究会設立問題等
・毒性試験法検討特別小委員会副委員長
・バイオ医薬品検討特別小委員会
・GLP対応特別小委員会
・ICH 準備会合始まる(1991年初め頃)、夏以降これに備えた国内外の会議が本格化、第1回は同年11月(ブリュッセル)

○日米財界人会議 先端技術プロジェクト バイオテクノロジーに関する日米合同委員会
 日本側委員長:都河龍一郎(味の素、取締役)
 医薬品小委員長:菊池康基(1988. 11〜1991. 3)
 1988年より、サンフランシスコ('88. 12, '89. 3)、東京('89. 6)、ワシントン('89. 10, '90.5)、ハワイ('90.2)とほぼ3ヶ月毎に開催され、国内会合も頻繁。最終報告書は1990年7月「バイオテクノロジーに関する規制の基礎となる科学的原則と手法の調和に関する日米産業界の共同提案」、大阪で開催の第27回日米財界人会議で承認された。
 更に、日米欧3極会議をベルギー('89. 9)と東京('90. 11)で開催。

○日本毒科学会 評議員、教育委員、
 毒科学基礎教育講習会組織委員会委員(1990〜1995)
 第1回(90.8)と第2回(91.1)の講習会事務局担当、6年間にわたり講習会の企画・実施・講師

○日本環境変異原学会 評議員、企画委員、賞等選考委員会委員(長)

○DIAシンポジウムの日本初開催のためのプログラム委員会委員(1989〜1990)
 顔ぶれは大森義仁委員長、菊地博之(製薬協・医薬品評価委員会委員長、藤沢)など。
 シンポジウムは1990年10月開催。クリアすべき課題が多く、頻繁に委員会を開催。

  国内の会合の多くは東京で、大阪に居る身にとってはつらいことであった。海外出張を含む宿泊出張は、多い年で年間40回以上を数え、日帰り出張を含めるとほぼ毎週出かけている計算となった。こうした中、QA研究会設立関係の会合には、都合の許す限り出席することとし、とくに節目となる会合は私の予定に合わせて頂いた。

【日本QA研究会設立に向けて】
 明けて1990年春までには、QA研究会設立についての第1分科会内の作業は、事務局問題を除き、順調に推移し、基礎研究部会としての構想もほぼ固まった。そこで、日薬連加盟の製薬企業および受託研究機関の有志の方々と第1分科会正副分科会長との会合を持ち、QA研究会設立に関するこれまでの経緯と設立構想を説明し、協力を求めた。その結果、研究会設立に異論は全くなく、関連業界全体で設立に向けて第一歩を踏み出すこととなった。
 なお、設立の経緯についての詳細は三浦3)を参照されたい。

【日本QA研究会設立準備委員会発足】
 10月に、第一製薬の会議室において、日本QA研究会設立準備委員会が正式に発足し、初会合が開催された。委員会社の顔ぶれは、日薬連加盟製薬企業10社、民間受託機関6社、財団法人受託機関3社、海外受託機関3社、基礎研究部会9社の総勢31社、38名であった。この会合の後行われたレセプションには、準備委員会顧問をお願いしていた大森先生や国衛試の先生方をはじめ、厚生省、安研協、製薬協等の関係者も多数参加され、関連する官・学・産の支援体制も整った。
 準備委員会は、基礎研究部会QA分科会作成のQA研究会設立構想案をたたき台に、関連業界の意向を十分に反映させるべく作業を進めることになった。

【日本QA研究会設立準備委員会の構成】

委 員 長: 堤 淳三(エーザイ)
副委員長: 吉田秀雄(大塚製薬)、三浦昌巳(東洋醸造)
特別委員:
(6名)
羽室行彦(武田薬品)、相沢徳尚(日本バイエルアグロケム)、中村隆太郎(日本レダリー)、
野村 章(塩野義製薬)、樋口史郎(わかもと)、飯塚三善(日本ベーリンガー)
設立委員:
(19名)
石村勝正(日本生物化学センター)、井筒 稔((財)食品薬品安全センター)、今井康晴(三菱化成安全科学研究所)、上地俊徳(摂南大学)、神田宣一(グレラン製薬)、榊原武久(味の素)、須藤晴雄(大鵬薬品)、聳城 豊(ライオン)、高橋伸夫(大塚製薬)、堤 淳三(エーザイ)、栂野晴作(資生堂)、野口浩一(パナファームラボラトリーズ)、橋爪武司(第一製薬)、馬場百合子(キリンビール)、藤田光次(雪印乳業)、堀川哲夫(日本シェーリング)、松本信太郎(山之内製薬)、三浦昌巳(東洋醸造)、吉田秀雄(大塚製薬)
賛助会員:
(13名)
吉崎幸一(テルモ)、浅野哲秀(日東電工)、山森 芬(サントリー)、太田昭行(日本たばこ)、澤幡 正(東レ)、水野直子(イナリサーチ)、林崎 篤(ボゾリサーチ)、坂井幸枝(実験動物中央研究所)、北村佐三郎(日本バイオリサーチセンター)、杉山繁雄(食品農医薬品安全性評価センター)、高田牧男(中外貿易)、家成 亘(ハンティンドンリサーチセンター)、中村よし子(加商)
委員会顧問: 大森義仁

 QA分科会で設立構想に尽力された3氏が正副委員長に就任したことは、事の流れから見ても当然であった。委員や賛助会員の顔触れからも、準備委員会には医薬品のみならず食品、農薬等、GLP に関係する種々の企業が参加していることがお分かりいただけよう。

【製薬協理事会の承認】
 製薬協上層部に対しては、これまでにも医薬品評価委員会菊地博之委員長(藤沢薬品)のみならず、新谷理事長、代田専務理事には、事あるごとにQA研究会設立に向けての部会内での検討結果をお知らせしてきた。設立準備委員会立ち上げを機に、堤、吉田、三浦氏と共に、改めてこれまでの経緯を説明し、さらなる支援をお願いした。本件に関しては、製薬協理事会に正式の報告することとなり、次の理事会に第6号議案「QA研究会設立への協力の件」として提案され、承認された。

【日本QA研究会設立委員会に衣替え】
 準備委員会は数次にわたる会合が行われ、設立委員会の組織、設立総会までの検討課題やタイムスケジュール等につて審議した結果、正式に設立委員会を発足させる機運にいたった。そこで、1991年5月30日の会合を第1回日本QA研究会設立委員会とし、本格的な活動を展開することになる。
 委員会の構成は、副委員長を4名に増員する他は、準備委員会のままとし、月1回の定例委員会を開催し、1992年2月の設立総会へ向け、会則、運営体制、活動項目、事務局等についての具体的な検討に入った。
 6月27日の設立委員会では、林先生(国衛試)と坂野査察官の講演があり、代田製薬協専務理事も出席された。7月には「新医薬品研究開発フォーラム」で「GLPの実際と毒性試験の進め方」と題するシンポジウムが東京(23日)と大阪(30日)で開催され、菊池に講演依頼があり「QAUに期待されるもの」という演題で.基礎研究部会・QA分科会がまとめた資料を解説するとともに、日本QA研究会設立を正式に表明した1)

【事務局】
 事務局を自前で持つのか、GLP/QA関連学会の分科会として寄生するか、或いは、外部に業務委託するのかは、当初より議論されていた。しかし、QA業務従事者にとって事務局業務は全く異質であり、関連学会に寄生するか、外部委託すべきとの結論が打ち出され、財団法人や学会等、関係する各分野の団体に折衝が続けられていた。しかしながら、リーズナブルな経費で事務局を引き受けてくれる受託機関は中々見つからなかった。関連学会は専門性が高く、内部組織の一つとしてのQA分科会は馴染まないといった理由で断られ、また厚生省関係の財団法人からは、高額な事務局運営費案を提示されて婉曲に断られ、暗礁に乗り上げていた。
 そんな折、サイエンティスト社の大野満夫社長と、基礎研究部会の研究成果物の出版のことで会う機会があった。大野社長とは、1980年に出版された「変異原データ集」の編集作業で知り合って以来の仲であった。たまたま話がQA研究会設立のことになった。事務局の引受先がなくて困っていることに触れ、大野さんの知っている所で引き受けてくれそうな団体か会社はないだろうかと尋ねたところ、「私でよければ引き受けてもよいですよ」という返事に耳を疑った。早速、この朗報を委員会に連絡した。その後、事務局委託の話はとんとん拍子に進み、大野さんが初代事務局長に就任することになる。

【設立総会直前の一波乱】
 1991年後半は、設立委員会における設立総会に向けての各種作業は、紆余曲折はあっても、順調に進んでいるものと思っていたが、年末を控えた12月6日の伊豆長岡での臨時会合で、とんでもない事態が持ち上がった。
 堤委員長が深刻な顔で話し出した内容を要約すると、(1) 委員会の内部で、一部作業の遅れが出て総会までに間に合いそうもない、(2) 委員の結束に乱れが生じている、(3) 独立して研究会を立ち上げても、運営経費を含め果して自分たちだけで会を運営していけるかどうか不安、(4) このような状況では研究会設立は無理なので白紙に戻したい、というものであった。
 この少し前より,委員の何人かから、婉曲な言い回しではあるが (3)の不安感について聞くことがあった。私の受け止め方は、「ははあ、やはり製薬協という大きな傘の下から離れ自立することが不安なのだな」「最初は不安でも、その状況下に置かれれば、人間はおのずとその環境に適応するもの」「まだ、甘えがあり誰かが何とかしてくれると思っている」というものであった。また、(1)については間に合わすことは可能、(2)については目標を再確定すれば結束はおのずと固まる、(4)については対外的にも公表し、行政、業界、学会に確約したものを白紙に戻すことはあり得ない。堤委員長には私の考えを説明して翻意を促すとともにし、そのための最良の方策と思い至ったのが、設立総会会場に予定していた私学会館の仮予約を本予約に切り替えることであった。これによって、設立総会の開催を既成事実化し、消極論者の逃げ道を塞ぐことができると考えたからであった。引き続き、委員会の席上で。上記を説明した後、会場を本予約することを提案した。反対論もあったが、QA研究会設立を白紙の戻すことはあり得ない、という強い意思を持って対処して行くことを再確認できたことで、大きな山を乗り切ることができた。
 その後の準備作業は、委員会の皆さんの迷いが吹っ切れたためか、思った以上に順調に進んだ。18日には堤、三浦両氏とともに厚生省久保田査察官と面談し、設立総会について行政側の最大限の協力を要請した。また、19日にはかねて就任をお願いしていた大森先生より、正式に日本QA研究会会長就任を受諾する旨、ご返事を頂いた。これで、設立総会に向けて準備万端整って、1992年を迎えることになった。

【設立総会】
 1992年2月6日(木)、山手線の市ヶ谷駅にほど近い私学会館アルカディアホールにおいて、日本QA研究会設立総会が盛大に行われた。行政、学会、業界からの多くの来賓も含め、出席者は260名にのぼった。ここに、大森義仁会長の下、QA担当者の職能集団としてスタートしたのである。私も製薬協を代表してご挨拶を申しあげた2)
 総会の詳細は省略するが、5年近くにわたる関係各位の努力と熱意には、本当に頭の下がる思いで、心から敬意を表したい。私にとっても一つ肩の荷が下りた気がした。
 こうして、QA研究会はGLP分野のQA担当者の方々のご尽力で無事に船出したが、これからは研究会の運営・活動をいかに展開するかが問われることになる。

【エピローグ】
 もともと、私はQAに関しては査察を受ける側であり、その業務については素人といってよい。基礎研究部会のQA分科会での検討に始まり、設立準備委員会、さらには設立委員会の活動については、相談にも乗ったし、資料にも目は通していたが、その目指す方向性さえ間違っていなければ、口をはさむことはしなかった。と書くと格好良く見えるが、実情はというと、多忙のため委員会に長時間係わる余裕がなかった、ということであった。
 新しい研究会を一から創るということは、経験した人間でないとわからない、並々ならぬ苦労の連続である。1991年12月頃の堤委員長のげっそりと頬の肉が落ち、無精ひげの生えた顔が今も目に浮かんで来る。委員のみなさんも多かれ少なかれ疲労の極に達していた。こうした中で、私が第三者的な立場から、比較的冷静に委員会の動向を把握していたため、大局的な判断を誤ることがなかったと言えるかもしれない。私はあくまで黒子に徹するつもりでいたが、最後の段階で黒子の衣装を脱ぎ棄てて、指令を発せざるを得なかったことは、私の不徳の至りであった。
 私が部会長を退く少し前、1993年3月のある夜、QA研究会設立の発端となった関係者、大森会長、内田課長補佐、中村元分科会長と私の4名が日本橋に集まった。5年前の厚生省からの提案を受け、研究会設立にまでこぎ着けた苦労話や、設立総会の思い出、さらには1年経過した研究会の状況と問題点など、話が尽きることはなかった。最後に、大森先生からは、今後とも基礎研究部会の一層の協力と支援を要請され、お開きとなった。

参考文献
1)菊池康基.1991. QAUに期待されるもの. GLPの実際と毒性試験の進め方.新医薬品研究開発フォーラム3,
  (財)日本抗生物質学術協議会編,(株)ミクス,東京, p.32-46
2)菊池康基.1992.日本QA研究会設立総会挨拶.日本QA研究会会報、1:3-4.
3)三浦昌巳.1992.設立の経緯.日本QA研究会会報、1:5-124

- 次回に続く -

その1.発端から設立準備委員会立ち上げまで
その2.設立総会まで
その3.国際QA会議

経歴
菊池 康基(きくちやすもと)
北海道大学理学部生物学科動物学専攻卒
理学博士
1962年 2月〜1964年 9月 Roswell Park Memorial Institute (Buffalo, N.Y.)留学
1965年 1月〜1970年7月 国立遺伝学研究所・人類遺伝部入所
1970年 7月〜1993年11月 武田薬品工業(株)入社, 中央研究所薬剤安全性研究所
同社研究開発本部プロジェクトマネジャー, 審議役を経て退職
1993年11月〜2008年5月 轄総ロ医薬品臨床開発研究所 理事
この間、日本製薬工業協会(製薬協) 医薬品評価委員会 基礎研究部会部会長、
ICH Safety EWG (バイオ, 遺伝毒性) 製薬協代表委員、臨床試験受託事業協会理事、副会長、日本SMO協会理事、副会長を歴任。
2008年 6月よりフリー
日本環境変異原学会会員、日本環境変異原学会哺乳動物試験研究会 (MMS研究会)会員
日本トキシコロジー学会功労会員、日本QA研究会特別会員、安全性評価研究会特別会員

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