一 向 庵

医薬品の遺伝毒性試験の黎明期

その4 製薬企業の対応

元 武田薬品工業株式会社中央研究所(理学博士)菊池 康基

 さて、JEMSの活動も軌道に乗る中で、各製薬会社は遺伝毒性試験にどのように対応していったのであろうか。JEMSの研究発表会に参加する製薬企業は年ごとに徐々に増えてはきたが発表は少なかった。その中で第一製薬などは早くから遺伝毒性試験に取り組み始めていた。受託機関では、残留農薬研究所、食品薬品安全センター秦野研究所(食薬センター)、野村総合研究所などがいち早く試験を開始していた。 1970年代を医薬品の遺伝毒性試験の黎明期とすると、医薬品の毒性試験法ガイドラインが制定された1980年代は成長期、ICH(薬事規制の調和のための国際会議)が開始された1990年代は成熟期といえよう。本項では、標題に従って、ガイドラインが公表されるまでの業界団体の中での企業の取り組みと、JEMS内でのグループ活動の始まりに焦点を当てて振り返ってみる。

1.武田からの情報発信

「その1」に書いたように、武田の薬安研で我々が蓄積した技術やデータをいかに開示するかは、大きな課題であった。JEMS発足当初から、われわれの研究成果は積極的に論文あるいは口頭で発表していたが、それに加えシンポジウムや研修会の講師も進んでお引き受けすることとした。
私より2年後に、京都大学医学部より薬安研に入社された高野喜一先生から、薬物の特殊毒性についてシリーズで出版する企画があり、1冊目に「胎児毒性と遺伝毒性」を取り上げるので協力してほしいとのお話があった。遺伝毒性については、土川先生と飯島博士にも執筆をお願いし、1975年に南江堂より共著として出版した1)。この本が、日本で初めての遺伝毒性試験のテキストとなった。
また、これから述べるように、製薬業界の団体や学会の分科会等の活用によって、企業研究者の方々との交流の場を作ることが極めて重要と考えるようになった。

2.業界団体での取り組み

【製薬協での活動】
 1976年の春、梶原先生から「製薬団体の一つ、日本製薬工業協会(製薬協)で医薬品の遺伝毒性試験についての検討グループを作ることになったので、リーダーになってくれ」とのお話が飛び込んできた。製薬団体のことなど全く知らない私はびっくり。詳しく伺ってみると、梶原先生は製薬協・安全性委員会(現在の医薬品評価委員会の前身)の委員長をされていて、1976年度の事業計画の一つとして、基礎研究部会の中にこの問題と取り組む第5チームを編成することになり、「リーダーも君に決めてきたよ」とのことであった。製薬協のことも、ましてや業界活動のことも全く知らないのでとしり込みする私に、「来月、顔合わせの会合があるので出席するように」と言い残されて、部屋を出て行かれた。

基礎研究部会第5チーム:初会合の当日、東京日本橋本町の製薬協会議室に集まった第5チームのメンバーは9社9名、エーザイ、大塚製薬、小野薬品、興和、塩野義製薬、日本チバガイギー、万有製薬、ミノファーゲン製薬、と武田薬品であった。梶原委員長の挨拶で、新しい毒性分野として、催奇形性は生殖に及ぼす影響に関する試験法として定められ(1975)、癌原性に関しても新ガイドラインが提示された。残されているのが突然変異に関する毒性である。そこで1年かけて、医薬品のための遺伝毒性試験はどうあるべきかを検討するように言われた。すなわち、医薬品の突然変異誘発性検出のため、いかなる試験系を採用すべきか検討せよというもので、製薬協の自主ガイドラインの作成を任されたわけである。
参加された企業の状況を聞いて驚いた。塩野義製薬が微生物の復帰変異試験を実施している以外は、7社とも全くの未経験であるという。1年という限られた期限内に、目的が果たせるのか、誠に心もとないことであった。そこで、はじめは月1回の会合を勉強会としてスタートした。資料は全部私が準備し、分厚い英文のテキストや文献などを風呂敷に包んで東京大阪間を往復したものである。試験法毎に各人に資料を割り当て、次回に発表してもらう形式で、約半年勉強を続けた。

第5チームの遺伝研訪問:ある程度、基礎知識を身に付けてもらった秋に、遺伝研を訪問し、田島、賀田、土川の諸先生から遺伝毒性について直接お話を伺う機会を作った。田島先生は、遺伝研所長に就任された直後でご多忙にもかかわらず、いわば素人の勉強会に対して、遺伝毒性の重要性、試験法の今後の進展、について懇切丁寧に解説していただいた。賀田先生の研究室ではAmes test やRec- assayについて、また土川先生にはマウスの飼育状況や優性致死試験について、それぞれ研究の現場でお話をお聞きした。遺伝研訪問は、日本の研究をリードする先生から最新の研究成果を直接お聞きしたことで、グループ全員に強いインパクトを与えたようである。

自主ガイドラインの作成:こうして初冬に入ると、報告書の作成に取り掛かった。項目ごとに全員による分担執筆とし、菊池が責任編集を受け持った、初稿ができても編集は難渋した、理解度の違いにより初稿に大幅な修正・加筆をせざるを得ない文章もあるし、文体の統一のために何度も推敲を繰り返した。それでも1977年3月には報告書が完成し、委員長に提出した。表題は「医薬品の遺伝毒性試験 〜現状分析と暫定的試験法〜」で、報告書はそのまま月間薬事の5月号と6月号に掲載された2)。
この報告書は、印刷ページで21ページにのぼり、内容としては、総論、試験法の現状とその問題点、医薬品の遺伝毒性試験、で構成されている。第5チーム全員の力を結集した労作であった。この報告書でまとめた自主ガイドラインは下記の如くであった。
――――――――――――――――――――――
医薬品の遺伝毒性試験(試案)、1977年
 1.当面実施すべき試験 
  ○修復試験(Rec -assay)
  ○Ames 株と大腸菌を用いた復帰変異試験
 2.今後必要に応じ実施すべき試験
  ○小核試験またはin vivo染色体異常試験
  ○優性致死試験
――――――――――――――――――――――
 第5チームの1年間にわたる活動と報告書によって、製薬協加盟の各製薬会社においても遺伝毒性試験の認知度は高まり、またその必要性も理解されるようになり、遺伝毒性試験を導入する会社も徐々に増えていった。

【その後の製薬協・基礎研究部会での活動】
 1982年に医薬品の毒性試験法ガイドライン案が当局より示されると、基礎研究部会にガイドライン検討特別小委員会が組織され、遺伝毒性試験も分科会の一つとなった3)。その時に、遺伝毒性試験ガイドラインを巡って、国衛研の石館基先生などに科学的論争を挑んだのも、今になっては懐かしい思い出となった。ガイドライン制定後は、遺伝毒性グループは基礎研究部会の分科会サブグループとして、存続することになるが、その活動は活発であった。それが、後年の私の部会長就任へとつながったのであろう。

3.JEMS内での取り組み

 JEMSがスタートした頃は、製薬会社を含め企業研究者の参加や発表は少なかった。一般論でいうと、大学の研究者からは情報収集が目的かと言われたり、研究活動も一段と低く見られていた。突然変異のメカニズム解明や高感度の新検出系の研究などが学会での発表によりふさわしいとする大学関係者も多く、企業から新薬の陰性結果を発表すると、そんなネガティブデータに何の意味があるのかと冷笑されることもあったようである。
 このような状況を打開するためには、JEMSを単に発表の場としてではなく、同じ分野の試験・研究を行っている者の情報交流をより円滑にし、研究のレベルアップを図り、企業研究者の地位向上に向けた活動が必要と痛感した。
 もう一つの大きな障壁が、規制科学に対する大学の研究者の無理解であった。1974年頃より食品添加物や農薬についての規制の中で、遺伝毒性試験のガイドラインが提示されるようになった。医薬品については1980年より遺伝毒性試験のデータ提出が求められ、1982年にガイドライン案が出され、翌年にはガイドラインとして制定された。このガイドライン作成には、石館基先生や遺伝研の先生、大学教授などJEMSの評議員が関わっていたにもかかわらず、JEMSでの議論はタブーであった。「学会は研究について議論する場であり、ガイドラインなどを論じる場ではない」とか「ガイドラインについて議論することは、学会の品位を汚す」などと公言する教授がいたほどである。したがって、ガイドラインについては後述のJEMS分科会内での議論に留めるか、あるいは製薬協・基礎研究部会で検討するよりない、というのが当時の状況であった。1984年のJEMS公開シンポジウムで規制問題が一度取り上げられただけで4)、年会のシンポジウムやワークショップで自由に議論されるようになったのは1992年以降である。
 このような企業研究や規制科学に対する無理解は、JEMSのみの問題ではなく、毒性関連の学会では当時いずれも同様な悩みを抱えていたようである。

【優性致死セミナー】
 優性致死試験についてJEMSで初めて発表があったのは第3回(1974)で、その後も年に2〜4題報告される程度であった。優性致死試験は実験規模も大きく時間もかかる。しかも、各研究機関では背景データも十分ではなかった。土川先生とお会いするたびにこの状況を何とかしなくてはと話をしていた。第6回JEMS(1976)のときに、土川先生、渋谷徹博士(食薬センター)の3人で相談し、優性致死試験の研究会を立ち上げることになった。1977年2月に優性致死試験を実施している7機関から十数名が三島に集まり、「優性致死セミナー」がスタートした。土川先生以外は、ほとんどが企業または受託機関の研究者であった。このセミナーはJEMSの分科会として承認され、土川代表幹事を中心に1982年まで8回の集会を開いた。

【小核研究会】
 1980年、石館基先生と私が世話人となって小核試験の確立を目指して発足させた。
 その少し前、石館先生と林真君が武田の研究所に来訪された。林君(後、国衛研部長、JEMS会長)は石館先生の下に入所して間もない頃だった。石館先生とは官民の立場を超えて、遺伝毒性試験の発展のためにどうすべきかを話し合った。特に、in vivo 試験系の民間への普及は最優先課題であり、われわれの研究室で基礎データ収集中の小核試験は、小核誘発と染色体異常との関係を実証すれば、in vivo 試験として極めて有望であること、武田は企業の立場があるので、国衛研主導で普及活動をお願いしたいこと、そのための協力は惜しまないことを申し述べた。石館先生も小核試験の重要性は十分認識されており、国衛研と武田の共同研究の形で小核試験の基礎的研究をすることで合意した。林君も小核試験について強い関心をもっており、彼が研究の中心となって進めることとなった。林君が山本君の関学の後輩であることも幸いした。林君が後年、小核試験の世界的権威となったことは、周知のことである。
 また、確かこの時であったと思うが、石館先生より室長を探しているが、良い候補に心当たりはないかとのことで、広島の放射線影響研究所にいる祖父尼俊雄君を推薦した。彼は北大大学院の3期後輩であり、私の米国留学先に後任としてやってきて、研究引き継ぎのために数カ月一緒に暮らしたことがあり、技量も人柄もよく知っていた。しばらくして祖父尼君は変異遺伝部の室長に迎えられることになる(後、部長、JEMS会長)。
こうした伏線があって、小核研究会を立ちあげたわけである。ところが、会を開いてみると、優性致死試験や小核試験などのin vivo 試験を実施している研究機関はほとんど民間に限られており、2つの分科会の出席者も重複していることが判明した。そこで、1981年の第10回JEMSの時に、土川、石館両先生を囲む有志の会合で、両会を統合して新たな研究会を作り、in vivo試験の研究の促進と普及、共同研究の推進など、効率的運営を進めることで、出席者の合意に達した。

【MMS研究会】
 1982年2月、修善寺の桂山荘において、設立準備会が開かれた。出席者は、土川清(遺伝研)、渋谷徹(食薬センター)、祖父尼俊雄、林真(国衛研)、島田弘康(第一製薬)、山本好一、菊池康基(武田)の7名、新しい会の基本方針を定め、ここに「哺乳動物変異原性試験研究会、Mammalian Mutagenisity Study Group, 略称MMS研究会」がJEMS の新たな分科会として誕生した。同年5月には第1回会合を開催し、土川先生を会長にin vivo試験系についての活動が開始された。この研究会の大きな特色は、会員には限られた大学の研究者しかいないことであった。大学の研究室では、費用も時間もかかる動物実験はしたくてもできなかったのであろう。
 土川先生と国衛研・変異遺伝部を中心に民間の研究機関が集まって、in vivo(あるいはin vitro)の哺乳動物試験系の確立・普及に尽くした功績は大きい。また、小核試験を始めとする種々の試験の共同研究を発足当初から継続して実施しており、その成果は数十報にのぼり、いずれも国際誌に投稿され海外でも高く評価されている。製薬企業をはじめ多くの民間企業あるいは受託研究機関の研究者が意欲的に取り組んだ成果である。

【その他の活動】
 一方、微生物を用いる系についても、Ames testが広範囲に用いられるようになり、製薬企業でも実施するところが増え、試験法の勉強会や研修会の要望が強まったことから、微生物試験研究会(BMS)が分科会として設立された。特に、労働安全衛生法ガイドライに微生物試験が取り入れられたことから、製薬企業のみならず、種々の業界の企業にも急速に普及していったことが背景としてあげられる。
こうして、微生物から哺乳動物の系までの分科会がJEMSに設置され、企業研究者の会員数も増加し、それに伴い企業からの発表も年ごとに増え、JEMSにおける企業研究者の地位を確立していった。
 1980年代の製薬企業における変異原性試験の普及状況については文献3)を参照されたい。製薬協での最初の取り組み2)から10年も経ずして、製薬企業の87%が変異原性試験を実施または委託していた。試験技術の保有についても、微生物復帰変異試験が76%、小核試験が61%と高かった。企業研究者の努力は勿論のこと、試験法の普及に果たしたJEMSの功績(分科会活動を含めた)は高く評価されよう。

文献

1)

高野喜一, 菊池康基, 飯島貞二, 土川清 1975. 「薬物の特殊毒性−I. 胎児毒性と遺伝毒性」高木博司 監修, 南江堂, 東京.
2) 菊池康基, 阿久津貞夫, 千谷陽一, 小林富士男, 近藤専治, 牧司, 宮内照雄, 森剛彦, 森本宏一 (日本製薬工業協会・安全性委員会・基礎研究部会・第5チーム) 1977. 医薬品の遺伝毒性試験 〜現状部分析と暫定的試験法〜. 月刊薬事, 19:773-783, 931-949.
3) 菊池康基, 他 (日本製薬工業協会・医薬品評価委員会・毒性試験法検討特別小委員会・変異原性試験分科会) 1985. 医薬品の変異原性試験に関する調査報告. トキシコロジーフォーラム, 8:375-391
4) 菊池康基,企業の立場からの問題点. 日本環境変異原学会公開シンポジウム, 変異原性試験に関連する規制と諸問題, 東京, 10-11-1984.

(次回に続く)

医薬品の遺伝毒性試験の黎明期

第1回(その1 武田薬品時代)
第2回(その2 環境変異原研究会設立の頃)
第3回(その3 AF-2 物語)
第4回(その4 製薬企業の対応)
最終回(付記  JEMSよもやま話)

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